2019年10月30日水曜日

「ママリンゴの唄」聴いてきました!

イントロは多分、こんな感じです🎈

((部屋着にしているTシャツなので変な服ですみません💦))

基本的にC#mの形で、C#mを一度鳴らしてからそのまま手の形を変えずに3弦(6F)・4弦(6F)を弾き、そしてここが少し難しいですが、小指で5弦7Fを抑えて鳴らし、小指を離して5弦4F(もともとC#mを鳴らした時に人差し指で抑えてる)を鳴らす感じかと思います!

一応TAB譜っぽい感じで書いてみたので、動画と併せて参考までにどうぞ🎈


いつか一緒に、ギター弾けるのを楽しみにしているのです!😊


2019年10月15日火曜日

モカ・マタリとドゥー・ワップ

10月15日

戸籍謄本を郵送で申請しなければいけないことを思い出して、早起きした🐰
朝晩が冷え込むこの時期は、いつにも増して目が覚めても布団から出たくなくなるが、
ここ数日ゆっくりと睡眠をとれたせいか比較的寝覚めが良く、起き出して朝食をとった

山形の田舎へ送る書類のうち、もう準備できるものは食後すぐにまとめた。
田舎にも関わらず町役場のホームページは意外にも立派で、戸籍関係の証明を郵送で申請する便宜のために、申請書のPDFファイルが公開されている。
それを印刷して、必要事項を記入し、郵便局で小為替を買って身分証明書の写しを添付して送ればいい。欲を言えばコンビニ申請にも対応してほしいものだが、良い時代になった。

書類をある程度準備してから、モカ・マタリを淹れて、ラジオのスイッチを入れてみたらBOΦWYのDreamin'が流れてきた。懐かしい。

映画JOKERに触発されて、昨日からドゥー・ワップ(Doo Wop)を聴き始めた。
1940年代後半~60年頃まで流行っていたようで、底抜けに明るく馬鹿げた音楽であるように聴こえるが、現代になって聴き返すと趣が深い。
まるで、かつては栄えていたが今では潰れて廃墟と化した劇場の、全盛期に撮影された写真のアルバムを見ているような気分になる。ナチュラルにローファイな質感が耳に心地よい。
ドゥー・ワップは大音量で聴くものだと思う。誰もそんなことは言っていないかもしれないが、その方が没入感があるし、劇場のやかましさの中にいる気分になる。
古き良き、などという言葉がこれに似合うかもしれないが、その時代が良かったのかはよく分からない。


The ChordsのSh-boom。オリジナルはCrew Cutsというグループの曲らしい。



The ChordettesのLollipop。



CrowsのGee。

自分の性に合う音楽ではないかもしれないが、この時代の空気感が妙に心地よく聴いてしまう。
ドゥー・ワップ、という音楽もなかなか悪くない。

コーヒーを淹れて、ドゥー・ワップを聴きながら『世界の哲学50の名著』を読んでいたが、今日はデヴィッド・ボームの『全体と内蔵秩序』だった。
彼は理論物理学者で、量子論や素粒子論に多大な功績を残している。
この本は非常に価値のある本で、今となっては自分の哲学はもはや、彼の世界観にかなり近づいている。これまで様々な思想や、法律に宗教学などと様々な分野を((ほんの少しずつだけ))齧ってきたが、結局世界全体に対する説明を与えるという役割をこれまでの碩学は十分に果たせなかったのだと自分は思う。
近代以降科学は全体を部分に切り分けることに終始し、それ以降の哲学もそれに追従するように科学というパラダイムのもとで(特に20世紀以降)実証性や反駁可能性を重視してきたが、そうした動きは人類が求める答えから結局のところ乖離していたと言わざるを得ないだろう。
もちろん哲学は学問としてある程度の厳密さを要求されるべきであるし、世論に迎合するべきではないが、しかし哲学というものが本来担うべきであった問いが「検証不可能」というラベルの下で封殺されるという状況は(カントの時代から始まっていたことではあるが)、哲学それ自体の生死に関わる問題であると思う。
哲学が何を担うべきか、などと大それたことを扱う資格が自分にはないことは分かっているが、それでも世界全体とは何であるかについて説明を与えるのもまた哲学の役割ではないだろうか?
問題というのはそれである。「検証不可能」であるとしても、そこに合理的な推論の道を拓いたり、現実と形而上学的な言明との間に橋を架けることを、人々は求めているのだ。
哲学というものが既に十分細分化していることを踏まえると、哲学とは何かに答えを与えるという行為それ自体、哲学のうちのある立場を選択するということにならざるを得ない。
だから自分は、自分が考えていることが普遍的ではないということを知っているし、もちろん万人の代弁をできるなどと主張するつもりもない。哲学とは「自己の偏見の擁護者」であるというニーチェの言葉は含蓄に富んでいるし、それは現代でもなお妥当している。

”世界は分割も分断もされぬ一つの全体と考えるべきなのである。世界を粒子に分割すること、あるいは粒子と場に分割することは、単に粗雑な抽象に過ぎないのであり、一つの近似である。こうしてわれわれは、ガリレオやニュートンのそれと根本的に異なる秩序に到達する――そしてそれは分割不可能な全体という秩序なのである。"  ----『全体と内蔵秩序』デヴィッド・ボーム(1980) 
世界における分割や分断とは人間の妄想である。
世界は常に、実体として単一であり、流動的なエネルギーの場のようなものである。

「個人」「個人の」という名詞・形容詞は英語でindividualというが、それはin(不可能)+divid(分ける)+ual(形容詞)、つまり「分けられない」という意味である。それが含意するのは、個人は単一の者でありそれ以上細分化できないものということであるが、この哲学的文脈に合わせて言えば、そのindividualであるということは内的に分けられないということに留まらず、世界の中において外的にもindividualなのであるように感じる。
個人は確かに個人という単位であるが、世界という一つの秩序に生きるものとしてあくまで全体の一部であり、その意味でもindividualなのである、世界の中で「個」として分断された存在ではないのだ。

最新の科学やテクノロジーを置き去りにして、よりプリミティブな次元に立ち返る時間というのが人間には必要だ。そして多くの人はその欲求を無意識のうちに、何かの行為のうちに消化している。
それは古い音楽と、全体を統合する思想により、より「素朴な」実在としての自分を問い直すことだと自分は思う。奇妙な話だが現代において、素朴な実在は、素朴な認識のもとには捉えられない。現代では科学的な分断の精神が人々の骨身に染みており、特に教育のレベルが高い人ほど、科学のそうした性質を自明の所与のものとして(ウィトゲンシュタインにいう文法命題的に)受け入れているため、素朴な実在というものを捉える機能が退化しているように思える。知的な薫陶とはある意味で、森を無視して木を見続けるようなものだ。事実、現代の専門家諸賢の多くは、何万ヘクタールもの森林から一本の木を伐り出して皮を剥ぎ、木の繊維の一部を薄く取ってプレパラートに載せ、顕微鏡でそれを血眼になって見つめ続けているようなものだ。それが重要な営みであるとしても、一生をかけてそれに終始するのは馬鹿げている。

素朴な実在は、素朴な認識の下ではなされ得ないと思う。だからこそ、それを意識的に行う必要があるのだ。





2019年10月6日日曜日

The best revenge in the world is success.  --- Suge Knight

"Watch me transition from caterpillar to butterfly in the sky" --- 50CENT (Big Rich Town feat. Joe)


2019年10月4日金曜日

(((💓っ´•̥̥̥ω•̥̥̥`)っ""🐤🎀♨️

(((💓っ´•̥̥̥ω🐤🎀💋

ラブミちゃんのギター、とっても応援しているのですよ…🎌
ラブミちゃんのペースでゆっくり、少しずつ弾いていって、
長く続けられたらいいなと思っているのです…♫

そして、次会ったら教則本をぷれぜんとしますね!🎁
色々考えたのですが、やっぱり多分ゼロから始めて何も教則本がないというのは大変かなと思うので、それまでは大変かもしれませんがまちててねなのです!(っ´•̥̥̥ω•̥̥̥`)っ💦
((もちろんミちゃんが自分でもう早く用意しちゃいたいと思っていたら、それは買ってしまっても良いのですからね!🍀))

最初はうまくいかないこともあるかもしれませんが、続けたらきっとそのうちできるようになるのです☕️

(((💓っ´•̥̥̥ω🐤🎀♫♨️スリスリスリ…☁️

2019年10月1日火曜日

9月26日のブログ

秋の星座は素敵なものが多い
バイトが終わった後、空を見上げれば
ぎょしゃ座にアンドロメダ座、カシオペヤ座、ペルセウス座
アンドロメダ座は大きくてなかなか全体像がつかめない
ぎょしゃ座のカペラは一際明るい
カシオペヤはWの形で、晴れていれば比較的見つけやすいかもしれない
昨日、iPhoneのアプリの星座表を片手に、天頂近くに広がるアンドロメダ座を見上げていたら
女王アンドロメダの腹のあたりに、流れ星が見えた
思わず息を呑んだ

人間の暮らすこの地球も、その上で営まれる社会生活も
全ては広い宇宙の秩序の中にある
けれど宇宙の塵のような人間にはその秩序、「ロゴス」を知ることができない
人間は遥かな想像力を与えられながら、全てを知り解き明かすだけの力を与えられていないらしい
だけど人間の営みも、この宇宙の秩序に従っている
せいぜいそのことを認識できるというのが、人間の知恵の最たるものなのかもしれない、
だけどそれが一体本当は何を意味しているのかというのは、
自分にもまだよく分からない
人生とはそれを知るための旅である、と言えば多くの哲学者たちの同意を得られるかもしれないけれど
人間は全知と無知の狭間で頭を悩ますのはそう楽な事でもないね


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10月1日のブログ

一泊で帰ってくるけれど、ついに東京へ初めて独りで行く日が来た
自分で動いているという感覚というよりは、自分を自分で突き動かしているという感じがするというのが内実だ
人生のドアは叩かなければ開かない、
それを金言に自分を動かす
「動かなきゃ何も変わらないから、そう言って飛び出したあの部屋」
いつかも聴いていたD.Oのリリックが脳裡を過ぎる
今思い返せば、第一志望一つだけでろくに併願しなかった公務員試験という「危ない橋を渡ったわけは、ただ逃げ出したくなかったから」なのかもしれない
そして落ちた時は、
「自業自得なのは分かってる、この道を選んだのは自分」。
落ちてからの求人票をめくる日々、そして首吊り体験についても、
「悪夢のような毎日は、いつからか俺を強く鍛えた」のかもしれない
今の自分は冷静なのか闇雲なのか、それさえもはっきりとは分からないから
今の自分はまだ強く鍛えられてもいないけれど、
負のループから脱却するために動けているだけ自分はあの頃よりましになったのかもしれないとは思う
D.Oは自分と全く違うシチュエーションのことをラップしているけれど、どこか自分と重ねてしまう部分があるから不思議だ
あんな見た目、あんな声だけど、正直D.Oは結構的を射ているというか、リスペクトできるラッパーだ
あれ、今は確か捕まってるんだっけな
D.Oは本当に危ない橋を渡り続けている

話は変わるけど、星の話
最近はペルセウス座やカシオペヤ座、ぎょしゃ座をなんとなく見て分かるようになってきた
カシオペヤ座はとても分かりやすいんだけどね
最近はおひつじ座が、バイトの帰りに歩いているときほぼ正面にあることが分かった
自分は見ている時間が深夜だから、一般的には言えないけれども
ぎょしゃ座のカペラはこの時期見つけやすいから
もしミちゃんがカペラを見つけたら、それはチも毎晩見ていたカペラだよ

東京、しかも新橋なんかじゃ明るすぎて星は見えないだろうなあ
それが残念だな、星は見えなくても頭上で確実に輝いてるはずなのに
離れていても同じ星を見られるとすれば、なんてベタでクサいけれど、
実際素敵だと思うな


自分は何かを成し遂げるために、橋を渡る
それが危ない橋かどうか、自分にも分からない
仮にこれが石橋だとしても、これを叩いてから渡る余裕なんてなかったな
これまで積み上げた「ツケ」はもう自分に回ってきたのか、
それともまだツケを払ってる最中なのかも分からない
橋を渡りながら、向こうは霧が深くて見えない
足下が突然崩れるかもしれない
だけど立ち止まってる暇もない、
どこまで続いてるか分からない強度不明の橋だとしても、
一歩でも進めなければ渡りきることは決してできないのだから、
歩き続けなければいけない
いや、歩き続けることが最善の選択に違いないと、
自分に言い聞かせるのがせめてもの自分の成長なのかもしれない
「新橋」という地名はある意味で縁起が良いかもしれないね、
自分にとってこの橋は、脆い橋か頑丈な橋か分からないけれど、
公務員試験という危ない橋から落ちて行き着いた、
「新しい橋」であることに変わりはないからね…
地名の本当の由来なんて全く知らないけどね。。

行ってきます、
きっとなんとか上手くやってくるから、
ラブミちゃんはほおっとまっててね。