戸籍謄本を郵送で申請しなければいけないことを思い出して、早起きした🐰
朝晩が冷え込むこの時期は、いつにも増して目が覚めても布団から出たくなくなるが、
ここ数日ゆっくりと睡眠をとれたせいか比較的寝覚めが良く、起き出して朝食をとった
山形の田舎へ送る書類のうち、もう準備できるものは食後すぐにまとめた。
田舎にも関わらず町役場のホームページは意外にも立派で、戸籍関係の証明を郵送で申請する便宜のために、申請書のPDFファイルが公開されている。
それを印刷して、必要事項を記入し、郵便局で小為替を買って身分証明書の写しを添付して送ればいい。欲を言えばコンビニ申請にも対応してほしいものだが、良い時代になった。
書類をある程度準備してから、モカ・マタリを淹れて、ラジオのスイッチを入れてみたらBOΦWYのDreamin'が流れてきた。懐かしい。
映画JOKERに触発されて、昨日からドゥー・ワップ(Doo Wop)を聴き始めた。
1940年代後半~60年頃まで流行っていたようで、底抜けに明るく馬鹿げた音楽であるように聴こえるが、現代になって聴き返すと趣が深い。
まるで、かつては栄えていたが今では潰れて廃墟と化した劇場の、全盛期に撮影された写真のアルバムを見ているような気分になる。ナチュラルにローファイな質感が耳に心地よい。
ドゥー・ワップは大音量で聴くものだと思う。誰もそんなことは言っていないかもしれないが、その方が没入感があるし、劇場のやかましさの中にいる気分になる。
古き良き、などという言葉がこれに似合うかもしれないが、その時代が良かったのかはよく分からない。
The ChordsのSh-boom。オリジナルはCrew Cutsというグループの曲らしい。
The ChordettesのLollipop。
CrowsのGee。
自分の性に合う音楽ではないかもしれないが、この時代の空気感が妙に心地よく聴いてしまう。
ドゥー・ワップ、という音楽もなかなか悪くない。
コーヒーを淹れて、ドゥー・ワップを聴きながら『世界の哲学50の名著』を読んでいたが、今日はデヴィッド・ボームの『全体と内蔵秩序』だった。
彼は理論物理学者で、量子論や素粒子論に多大な功績を残している。
この本は非常に価値のある本で、今となっては自分の哲学はもはや、彼の世界観にかなり近づいている。これまで様々な思想や、法律に宗教学などと様々な分野を((ほんの少しずつだけ))齧ってきたが、結局世界全体に対する説明を与えるという役割をこれまでの碩学は十分に果たせなかったのだと自分は思う。
近代以降科学は全体を部分に切り分けることに終始し、それ以降の哲学もそれに追従するように科学というパラダイムのもとで(特に20世紀以降)実証性や反駁可能性を重視してきたが、そうした動きは人類が求める答えから結局のところ乖離していたと言わざるを得ないだろう。
もちろん哲学は学問としてある程度の厳密さを要求されるべきであるし、世論に迎合するべきではないが、しかし哲学というものが本来担うべきであった問いが「検証不可能」というラベルの下で封殺されるという状況は(カントの時代から始まっていたことではあるが)、哲学それ自体の生死に関わる問題であると思う。
哲学が何を担うべきか、などと大それたことを扱う資格が自分にはないことは分かっているが、それでも世界全体とは何であるかについて説明を与えるのもまた哲学の役割ではないだろうか?
問題というのはそれである。「検証不可能」であるとしても、そこに合理的な推論の道を拓いたり、現実と形而上学的な言明との間に橋を架けることを、人々は求めているのだ。
哲学というものが既に十分細分化していることを踏まえると、哲学とは何かに答えを与えるという行為それ自体、哲学のうちのある立場を選択するということにならざるを得ない。
だから自分は、自分が考えていることが普遍的ではないということを知っているし、もちろん万人の代弁をできるなどと主張するつもりもない。哲学とは「自己の偏見の擁護者」であるというニーチェの言葉は含蓄に富んでいるし、それは現代でもなお妥当している。
”世界は分割も分断もされぬ一つの全体と考えるべきなのである。世界を粒子に分割すること、あるいは粒子と場に分割することは、単に粗雑な抽象に過ぎないのであり、一つの近似である。こうしてわれわれは、ガリレオやニュートンのそれと根本的に異なる秩序に到達する――そしてそれは分割不可能な全体という秩序なのである。" ----『全体と内蔵秩序』デヴィッド・ボーム(1980)
世界における分割や分断とは人間の妄想である。
世界は常に、実体として単一であり、流動的なエネルギーの場のようなものである。
「個人」「個人の」という名詞・形容詞は英語でindividualというが、それはin(不可能)+divid(分ける)+ual(形容詞)、つまり「分けられない」という意味である。それが含意するのは、個人は単一の者でありそれ以上細分化できないものということであるが、この哲学的文脈に合わせて言えば、そのindividualであるということは内的に分けられないということに留まらず、世界の中において外的にもindividualなのであるように感じる。
個人は確かに個人という単位であるが、世界という一つの秩序に生きるものとしてあくまで全体の一部であり、その意味でもindividualなのである、世界の中で「個」として分断された存在ではないのだ。
最新の科学やテクノロジーを置き去りにして、よりプリミティブな次元に立ち返る時間というのが人間には必要だ。そして多くの人はその欲求を無意識のうちに、何かの行為のうちに消化している。
それは古い音楽と、全体を統合する思想により、より「素朴な」実在としての自分を問い直すことだと自分は思う。奇妙な話だが現代において、素朴な実在は、素朴な認識のもとには捉えられない。現代では科学的な分断の精神が人々の骨身に染みており、特に教育のレベルが高い人ほど、科学のそうした性質を自明の所与のものとして(ウィトゲンシュタインにいう文法命題的に)受け入れているため、素朴な実在というものを捉える機能が退化しているように思える。知的な薫陶とはある意味で、森を無視して木を見続けるようなものだ。事実、現代の専門家諸賢の多くは、何万ヘクタールもの森林から一本の木を伐り出して皮を剥ぎ、木の繊維の一部を薄く取ってプレパラートに載せ、顕微鏡でそれを血眼になって見つめ続けているようなものだ。それが重要な営みであるとしても、一生をかけてそれに終始するのは馬鹿げている。
素朴な実在は、素朴な認識の下ではなされ得ないと思う。だからこそ、それを意識的に行う必要があるのだ。
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