※テスト前なのでこのブログは読まなくても大丈夫です。。暇なときに読んでください💦
バイトから帰って、サラミを切るのが自分の楽しみであることは前にも書いたけれど、今日はそれに加えてもう一つ、"ゲスト"がいる。
カマンベールチーズだ。丸い、ホールのカマンベールチーズを散歩のおつかいのついでに買ってきた。頼まれていたわけでは全くない。お菓子を買い物カゴにこっそり忍ばせる子供のように、僕は「広告の品」と銘打たれたその品――雪印北海道100カマンベールチーズーーを徐に手に取り、カゴに追加していた。
サラミとカマンベールチーズを適当に切り、皿に盛る。
ただ"切る"だけで、出来すぎたプレートが完成した。
もっと洒落た皿が欲しいな、なんて思ってしまうような、個人的には満足のいく一皿だ。
画像のチーズをよく見て頂ければ、あるいはよく見なくとも分かるかもしれないが、写真を撮った時点で既にチーズを一口齧ってしまっている。チーズを切った時点で、久しぶりにカマンベールを味わいたくてついうっかり。『トムとジェリー』のジェリーのように悪気もなく。
ビールが発泡酒ではなく、本物のビールであったらもっと良かったのだが、生憎本物を切らしている。いずれにせよクリアアサヒは旨い。味わいは結構本物に近いような気がしている。
個人的な楽しみ。
だがカマンベールと白カビサラミ、これらは確かに共に旨いのだが、カマンベールの味わいが、サラミの繊細さをかき消してしまうように思える。これらは別々に食べる方が恐らく良い。サラミというのは、多くの人が思っているであろう以上に繊細な味わいを呈するのだ。他にはない旨さがそこにはある。
ビールに旨い肴があって、あとは音楽が足りない。
最近は専ら、心地よいサウンドに関しては、サウンドクラウドの音楽に頼ってしまっている。
クラウドという技術は、全世界をつなげながらしかし同時に――個人的な領域を無限に拡大した。
こんな音楽を聴いている。
これは個人的に、旅愁のようなシミがついてしまった音楽で、というのもドイツでも、東京でも、札幌でも、インターネットに繋げさえすればいつでもこれを聴けるからで、
僕はクラウドが文字通り雲のように、常に僕の頭上にあるような錯覚をついに感じている。
ドイツのあの部屋から新橋のホテル、札幌のアイ・カフェ、そして自室、君と一緒に入ったホテルLet'sと、僕はどこからでもこのアドレスにアクセスした。
そこは不思議なライブハウスのようなものだ。個人がそれぞれ顔を合わせないままそこに入れて、時折誰かがコメントを投げる、そして僕らは音もなくそれらを読むことができる。だが誰も彼も、顔を合わせることはない。そこに誰かがいるのかも分からない。僕らは不特定のオーディエンスで、アメリカの公園からパリの通り、日本のネットカフェ、それぞれが思い思いの場所から"聞き耳を立てている"。誰がどこに居ようかは関係ない。もはや国境はただの、地図上の線と化すのだ。
そういえば前に、札幌のアイ・カフェに1人で入ったとき、無駄な文章を綴ったのでそれを公開しようと思う。
「今はインターネットカフェでこれを書いている。ここはこれまで何度も訪れているが、
一人で利用するのは意外にも――意外ではないかもしれないが――これが初めてだ。普段
はラップトップばかりいじっているせいか、それともこの空間の静かさのせいか知らない
が、自分のタイピングの音がやけに気になる。周りからタイピングの音が聞こえないのは、単に多くの人がこの PC でタイプしていないからなのか、それとも自分が思うほど外に音が漏れないからなのかも分からない。だが自分のタイピング音はそこまで大きくはないはずだ。少なくとも、エンターキーをぶっ叩くようなことはしていない。
この WPS というワードプロセッサは、どうやら中国の企業の製品のようだ。確かにフロ
ア中全ての端末に、マイクロソフトの正規のライセンスを取得してオフィスを導入すると
いうのは費用がかさむのかもしれない。だがこのソフト、WPS writer というワープロの UI
はさすがかなりマイクロソフトの Word を忠実に模しているように見える。あまりいじりま
わしてはいないものの、普通に操作していて違和感は全くない。「パクり」製品であることを気に病むだけ無駄な話だろう。
自分のタイピングが止むと、ここに俄かに静寂が戻るような気がする。いや、これもま
た気に病むだけ無駄な話だろうか。
ともかく僕はこのインターネットカフェでこのようなかなりどうでもいい文章をものし
ている。ドリンクバーのコーヒーはドトールだのに特段引けをとらない美味しさで、いつ
も通りのハイライトを吸い、自分の煙がブースから天井へと覚束ない足取りで舞っていく
のを眺めていた。一人で来るのが初めてなものだから、僕はここで利用可能な flier という
ビジネス書の要約サービスを開いてみたり、こうしてワープロを開いてみたりと、初めて
に相応しいといえる子供のような純真な好奇心をこのパソコンに向けている。だが書架に
詰まった膨大な漫画に手を出すつもりはない。僕は決して暇を潰すためにここに来たので
はない。僕はただ勉強をするために来たのだ。PC はあってもなくても良かった。
なぜこんなものを書いているかというと、上記のような単純な好奇心のため、それとふ
と文章を書きたいという欲求があったため、そして頭痛薬が効くのを待っているためだ。
昨日からか今朝からか判然としないのだが、僕は原因不明の頭痛を脳内に飼っていて、僕
はこの頭痛を家から連れてきてしまった。大概の頭痛は煙草一本で簡単に去っていくのだ
が、この小さなしかし厄介な連れは、今回ばかりはそうとも行かせてくれないらしい。僕
は文字通り頭を抱えるような心地で、ここに来る道すがらコクミン薬局だかでいつもの頭
痛薬――イブ A 錠、二十四錠入り――を手早くキャッシュレス決済し――あそこではどう
やらたった六百円ほどをカード払いするにもサインが要るらしい――、この小ぢんまりと
したブースに入ってハイライトに火を点けるや否やコーヒーで流し込んだ。用法容量を遵
守して二錠。足りなければ後で足せばいい。
脳それ自体は痛みを感じないというのは知っているが、この頭痛はまるで脳のど真ん中、延髄あたりからローランド溝を縦に貫く鉄柱が埋め込まれているような感覚だ。そうであれば小脳は完全に破壊されているかもしれない。そしてともすれば視床も?僕は脳の構造には疎いが、最近読んでいた本のせいで、自分の脳がどのような構造になっているのかをこの歳にして初めて知った。僕の小脳が実際には恐らく破壊されていないといえるのは、まさにこうしたタイピングを造作もなくこなせているからだ。小脳が無くても人間は正常な意識を持ち生活できるらしい。だが、それなくしては日常の”無意識の”動作が極めて困難になる。僕はぼうっとしながら画面を眺め、キーをタイプする手元をまず見ることがないが、小脳が僕に暇を告げた日にはこうした動作を諦めることを強いられるだろう。僕は自分が指先でちまちまと押しているキーボードの配置を殆ど覚えていない。知っているのは、これが QWERTY キーボードであるということだけだ。にもかかわらず、僕の指はキーを完璧に正確にとらえ、ミスタイプはまず起こrんあい。おっと失礼。
下らないモノローグで時間を浪費するのも自分の趣味といえば趣味だが、そろそろ自分
の課題に戻らなくてはならない。僕は遠回りをする癖がある。そのくせ到着時刻はいつも
ギリギリだ。いや、ギリギリでも間に合えばいい方。僕は自分で自分の人生を厄介なもの
にしている。僕の歩く道は極めて平坦であるにもかかわらず、僕は自分の怠惰な性のせい
でいつもそこを走らなければいけなくて、そのせいで無駄に労力を消費している。この性
分を改善できればもっと生きやすくなるだろうにと思うのだが、人間はそんなに頑張れれ
ば苦労しない。だがこれを改善する労力と、改善しないことで失われる機会費用的な損失
とを天秤にかければ、結果はどうなるだろうとは思う。
頭痛は止まない。何がいけなかったのか?カフェインが僕の神経を興奮させている?そ
れとも画面を眺める行為が眼精疲労へと向かわせている?メンソールの煙草を吸えば少し
かよくなるだろうか。あるいはイブを追加するべきだろうか。
ともかく今回は、頭に巣食う手の焼けるペットが僕に懐いて仕方ないようなので、僕は
彼をなるべく宥めながら作業に取り掛かる他ないようだ。僕はこれからこの文章ファイル
を G-Mail で自分のアドレスに送信しようと思う。だがよく考えれば、このソフトは本家
Word と互換性があるのだろうか。僕のパソコンに送ったところで、これを開けるという保
証はないではないか。仕方ない。この文章をすべて、「メモ帳」にペーストしてテキストファイルとして送っておこう。
そして送ってみたのはいいのだが、念のため確認したところ文字化けしている。文字コ
ードのせいだろう。直すのも面倒なので、PDF で送ってしまうのが賢明かもしれない。そ
うしてみることにした。」
結局この、無駄な文章はわざわざPDF出力され、G-Mailというクラウドメールへと送られた。だからこうして僕の手元にいつでも呼び出せる。
クラウドに支配される世界はディストピアだろうか?いや、現段階ではむしろユートピアだ。クラウドが個人を識別する情報を完全に掌握することを要求し、かつそれがあらゆる支払いを掌握したとき、世界は確かに良くも悪くも変わるかもしれない。あるいは、マイナンバーとキャッシュレスが手を結び、その情報を政府が完全に掌握したとしたら?見えない誰か、『1984』のビッグブラザーが僕らを支配する日はそう遠くないかもしれない、などと訳知り顔で言ってみるのは、現代では強ち的外れじゃないかもしれない。
ネットカフェの個室から全世界へつながるインターネットへと接続し、ブルートゥース・イヤホンでサウンドクラウドの音楽を聴いて初めて、僕は個人主義の行く末を身を以て感じた。テクノロジーは確実に社会を最小単位へと――つまり個人へと――分割する力を持っている。誰かがこんなことを言っていた。統合と分断とが同時に起こると。それは今まさに起こっていることではないか。
現代は出口の見えない時代だ。どんな権威であっても、その言葉を鵜呑みにしない方が良い。これはこれからの時代を生きるための警告だ(言わずもがな、つまりこの警告も…)。誰かが占った未来が、そのまま訪れるとは限らない。未来を自分で考え、自分の生き方を自分で作っていく力が必要だ。
現代が混乱しているのは、過去の因習と、それから不確実な未来に対する恐れのせいだ。誰も正しい答えが分かっていない。
嫌な時代かもしれないが、恐らく正しいのはそれだけだ。
だが自分が最近読んでいた数々の本の中に答えが埋もれている気がしてならない。
われわれができるのは、学ぶことだけだ。学習能力においてAIより劣っていても、われわれはAIとは根本的に異なることができ、少なくとも現段階でAIには決して真似できないことができる。AIが"学ぶ"のとわれわれが"学ぶ"のは必ずしも同じではない。現段階でAIを過剰に恐れる必要はないだろう。
現代という時代を恐れてはいけない。
"恐れ"といえばあの言葉が頭に浮かぶ。
交通事故で死ぬのは犬よりも猫が多い、というのは、猫は危険を感じると目を閉じて(固まって?)しまうからだ、と。
生きているのであれば、われわれは目を開けていなければならない。
危険を前にして思考停止に陥ることこそが最大の危険だ。