2019年2月28日木曜日




不具合によりフォントのサイズや色、余白が変かもしれません。。
調整を試みましたがどうも直せません。。



家で大学院とかのことについて色々と調べて、学問と教職で食べていくのが(食べていくまでが)いかに大変か、時間とお金と労力がどれくらい必要かを知ってしまった。

人生詰まった感が強い。人生終了ではないかもしれないけどドツボにはまった。

自分にはもはや笑う権利もない。



あらゆる人の期待を裏切ることになるのだから。



自分の認識は何もかも甘かった。就職も進学も、楽な道を求めているわけではないけれど、自分に可能な道がまだ残されていないかと考えて、ついに詰んだ。

就職は前に書いた通り見込みが薄い。



進学は、金も時間も無かった。奨学金という借金を背負っても、そもそも職に就けるかわからない。

まともな選択肢なんて残ってなかった。

自分に残されたのは、とにかくどこでもいいから働き口を見つけて食うに困らないようにすることだけだろう。



一瞬見えた希望も、指の間からすり抜けていった気分だった。自分は就活の劣等生として、大人しく低い身分に居座るしかないようだった。



確実な未来が欲しい人間は、もっと努力すべきだった。

最後に負けるのは中途半端な人間だった。



満足な豚よりも不満足なソクラテスの方が良いという言葉があるが、誰も目を開けたまま地獄には居たくない。

死後火葬されるのは構わなくても、火あぶりの刑にされるのは嫌なのだろう。



失敗したら終わりだろう、みんな私の失敗に後ろ指をさし、私は信用を失う。

こんな筈じゃなかった。。。



こんなはずじゃなかった…



何も誰も悪くない、完全に自分だけのせいで、周りを不幸にすることになる。。

自分が生まれてきたのは周りを不幸にするためなのだろうか?

親は私のためにあらゆることをしてくれた。

回収不可能な投資になろうとは予想だにしなかっただろう。

申し訳ない。。

生まれてきたのが自分じゃなければ良かった。。

そうすれば誰も、ぬか喜びせず、誰も悲しまずに済んだ。



今はただ本当にこの間書いたように、飛び降りて地面に着くまでの間っていう感じ

失敗するのは分かってるけど、それが告げられるのを待つだけ

これまでは頑張ってきたつもりだったけど、自分がやってきたことって何一つ特別なことはないし、社会的に評価されるようなこともないみたいで

何だったんだろうって思う



人生の最初の20年くらいなんて殆ど就活のためにあるようなもので

しかも就活して入った会社で定年まで勤め上げるとしたら尚更

小さい頃から色々やってた人の勝ちだしそういう情報を効率的に得てきた人間が勝つんだと思う

高校生の内から留学とかボランティアとか色んな社会活動をやっておいたり

大学でも部長とかキャプテンとかやって留学したりボランティアしたり英検TOEIC受けたり色んなイベントに参加したり

そういういろんな経験を積んでおいて結局は損は無いんだよな、当たり前のことだった



なんで学生がそんなことをしないといけないのかよく分からないけど

大体学校っていうのは学びの場であるはずだし自分はそう思ってたから

まあその割に何の実績も無いし成績も結局そんなに良くないけれど

大学はもはや学問を安心してできるような場所ではなくて

ただ就職のための機関だよなあ大卒なんてもはや腐るほどいるわけだし



人脈も無いし情報も入ってこないからもう何していいのかよく分からない



自分なりには色々頑張ってきたつもりでも今までのすべては何の意味も無かったんだなって本当に思う

ただ自分の努力が足りなかったのかもね

いや、そう思うしかない



自分が好きだった「教養」って何だろう

やっぱり前にブログに書いたように、これは自分の身の丈には合わないものだったのかな

身の丈に合わないものを追い求めてたんだろうな

そういうのは成功できるエリートにしか要らないものなんだと思う

自分や自分と同じような愚者・大衆は、せいぜい奴隷の道徳を身に付けておけばいいだけ

それで社会は回るんだろうな



すべてはただ自分が失敗したからこうなった

自己責任だし個人の選択

どうすれば正解だったのかは分からない

ただ失敗を嘆いて投げやりに過ごしてる

自分は大した徳も積めなかった愚者であることに気付いても、それを改善できなければ結局は愚者に過ぎない



周囲の期待だけは高まっていくのに自分はそれを裏切ることになる

裏切られるためだけに高まっていく期待に、もはや同情の念さえ感じる

最後の一桁だけ違って前後賞も外した宝くじには何の価値もないけど

せめて300円くらい当たってくれないかな



最近は自分が死ぬ夢を毎日のように見ている

もはや見飽きたからそろそろ正夢になってもいい頃

得体の知れない、バイオハザードにでも出てきそうな怪物に食われる夢と

自殺する夢の2パターンしか見たことがない

前者のケースは例えば一見すると普通の人なんだけど

それが突然怪物になって、グロテスクな大きな口で頭や腕を食い千切られる夢

それとか人型でも頭が無い青い身体の怪物に捕まえられて

その怪物の首の断面の部分が星形に裂けて大きな口になって

それで食べられて一巻の終わりという夢

死んだ瞬間苦痛は無くて真っ暗な光景を一瞬だけ見る

即死ってそんな感じなのかもしれないと思う

自殺する夢で面白かったのは

過去の友達から現在の知り合いまで色んな人が駐車場にいて

小学校のときの担任の先生が順番に銃を渡して、渡された人が自分の首を撃って死んでいくというルール

今日何人死ぬかを先生は既に決めているらしくて、次回は来週やるらしい

まず最初の何人かが銃を渡されて、自分は渡されなかった

どういうわけかよく分からないけど、自分は大量の血液を透明な袋の中に持つ係になっていて

重いのによく破れないな、と思ってたらそれは普通の袋じゃなくて巨大なコンドームだった

なるほどこういう使い方もあるのか、賢いなと夢の中でよく分からない納得をした

けれどその血液がなんだかとても生々しくて

袋の中の血液は次第に分離して、下の方に固形分が沈殿し、上の方は黄色がかった液体になっていて少しぞっとした

とにかく夢の中で自分は、もう今日自分の番を済ませてしまいたいと思っていたら

次に自分に銃を渡された

良かった、と思ってすぐに引き金を引いたら

やっぱり目の前は真っ暗になった

死ぬ夢でも死ぬことに恐怖を感じた事は一度もない

むしろ自分で怪物や引き金に近付いていくケースが多い

だから自分にとって死への恐怖はあまり重要なことではないのかもしれない

ただ、自分が死んでもこの世界は存続するのだから

この世界で幸せに暮らしていたい人々に迷惑をかけるのは社会的な損失になるとは思う

逆に言えば自分の存在に期待する人が1人もいなくなったらそれが世界から引く潮時ってことだと思う

それは前からずっと思ってたから、神が自分に過剰に期待をかけるように計らったのかもね

まあ神なんて、1ミリも信じていないわけだけれど



思い返してみれば小さい頃から夢が無かったのってなんだか不思議

くだらない夢の一つでも持ってれば良かったのかな

自分はそういう意味で小さい頃から馬鹿だったんだな



社会に入れず、一方で独立して飯を食うスキルも無い



これは共産主義革命待ったなし



ここから転落人生が始まる





こんなはずじゃなかったし、どこで踏み外したのかも分からない


2019年2月26日火曜日

留学経験           :なし
インターンシップ経験     :なし
サークル・部活動       :なし
語学検定           :なし
保有資格           :なし
ボランティア活動       :なし
起業経験           :なし
ビジネスコンテストでの受賞経験:なし
アルバイトなどでのリーダー経験:なし

書くことが無さすぎる
こんな何の実績もスキルも無い人間が就職なんてできるわけない
既に結果は出ていたんだな
後はそれを宣告されるのを待つだけ

大人しくフリーターになるしかなさそう。
一体どこで人生間違えたんだろう

2019年2月20日水曜日

la mort

言うには奇妙だが人生は飛び降り自殺と似ている。
呪術の観点から見れば、人生を終わらせるには飛び降るのが良いだろう
もしくは他殺に関しても、高いところから突き落とせばいい

J.G.フレイザーによる呪術の類型に、模倣呪術というものがある
それは類似の法則と関連する
類似の法則とは、ある事象に似た現象を起こすことでその事象を起こすことができるという考え方であり、具体的には、家畜の繁殖を願って粘土などで大量の家畜の人形を作って洞窟に祀るなどといったことが行われていた
フレイザーは世界の古い民俗や民間信仰を研究して、かつてはそうしたある種の法則が信じられていたことを発見し、その法則を前提としてある事象の発生を願う呪術を模倣呪術として類型化した
もちろんこれはあくまで呪術の話であり、科学的な意味での「法則」と異なることは注意する必要がある。ここで議論されている法則は、科学的な因果関係に基づくものではないし、むしろ科学の発展によって糾弾された古来の考え方である。

しかし個人の単位で見れば人生は他殺かもしれない、自分の意思で生まれてくるわけではないから
人は生まれた以上死を避けることはできないのだから、
人が生まれるということは、その人がその親に高いところから突き落とされるのと同じことだ

飛び降りる行為は生まれることを意味する
飛び降りてから地面に落ちる瞬間までを人生と呼び
地面に落ちた瞬間を死という。
地面に落ちた瞬間人は二つの意味で死ぬ
飛び降り自殺の物語の上での死、そして自分自身の死
また実際に死んだかどうかは別として、地面に落ちた瞬間、物語の上での死は常に成就する

そこに人生のアナロジー(類比)がある。
細かいことを言えば、人生が自殺なのか他殺なのかは分からない。
人類が必ず滅ぶことを考えれば、人類の歴史は幾多もの絶え間ない自殺の連続と言えるし、個人レベルで人々が親から生まれることを考えれば人生は他殺なのかもしれない。
しかし、では人類を創造したのは誰なのかということを考えると、もはや分からない。様々な考え方によって場合分けして考える必要がありそうだ。
いずれにせよ「産み落とされる」という言葉は興味深い。「産み"落とされる"」ということの意味は、ここに書いたことのように深読みする余地があるかもしれない(多くの人は首肯しないと思うが)。



2019年2月15日金曜日

Paper Moon

『Paper Moon』1973年パラマウント、アメリカ

詐欺師の男モーゼと、孤児の9歳の女の子アディの話。
舞台は1930年代アメリカ中西部。
29年の大恐慌の後、不景気の中でフランクリン・D・ルーズベルトが大統領を務めていた時代。
単純に映画として面白い。ストーリーも分かりやすく、比較的万人受けしやすいタイプの映画だと思う。
以下、気になったところなど。ネタバレになるので全体には触れない。

新聞のお悔やみ欄を見て故人と喪主(その妻)の名前をチェックしてモーゼはその家を訪れ、カンザス聖書協会を騙りご主人はいらっしゃいますかと尋ねる。
主人は先週亡くなりました、と妻が答えるとモーゼはご主人が生前名入りの聖書を注文されたのですが、と言いかつ前金を貰っていると言う。
モーゼがその聖書を見せるとそこにはその妻の名前が。あらこれは私の名前だわ、あの人がこんなことをしてくれていたなんて、と言い代金を払って聖書を買う。これがモーゼの聖書ビジネスだ。
聖書の価格は高すぎてはいけない。例えば聖書は8ドルだが前金を1ドル頂いているので7ドルで結構です、というように僅かにディスカウントしている。モーゼの台詞によれば一冊5ドルが相場らしいが、アディはモーゼの傍らで家の内装や夫人の身に付ける装飾品などから判断して聖書の価格を大きく変えて提案し最高24ドルで売っている(モーゼは価格を決めるのは俺だ、と言っているのだが)。アディは9歳ながら卓越した策士であった。
なおこの時代のドルを現在の日本円に換算すると1ドル5000円前後(±300円くらいで大きく変動していた?)であるらしく、決して安い買い物ではない。

『反知性主義-アメリカが生んだ「熱病」の正体』(森本あんり、新潮社、2015)では「コンマン (=confidence man)」の文脈で紹介されている(同書p89など)。同書によればコンマンとは「他人の信頼を逆手にとって偽物を売りつける連中」のことである(同書p89)。
なお本作のモーゼは映画を観る限り決して信仰熱心ではなくあくまでビジネスとしてこれを業としており、信仰復興のため自らの信仰に基づいて聖書を売り捌くという人物ではなさそうである。(また聖書自体はおそらく本物である。)

<雑記>
パッケージでは劇中にも登場する紙製の月に彼らが腰掛けている。
9歳のアディは煙草を片手に、ラジオを抱えている。
本作のタイトルは1935年の流行歌「It's Only a Paper Moon」(1933年出版)にちなんで付けたらしい。この曲は後にジャズスタンダードの一つとなっているが、もしやと思いiPodに入っているDjango Reinhardtのアルバム「Djangology」を確認したところ、リイシューのボーナストラックとして同曲が入っていた(YouTube)。少し調べたところ、「It's Only a Paper Moon」は現在ではナット・キング・コールによるものが有名なのかもしれない(YouTube)。なお奇しくも本日2月15日はナット・キング・コールの命日である。軽妙なメロディラインが心地良い。ここで歌詞の一部を見てみよう:
Say, it's only a paper moon
Sailing over a cardboard sea
But it wouldn't be make-believe
If you believed in me
Yes, it's only a canvas sky
Hanging over a muslin tree
But it wouldn't be make-believe
If you believed in me
「ボール紙の上に浮かぶ紙の月でも
私を信じていれば本物のお月様
作り物の木と絵に描いた空でも
私を信じてくれたら本物になる」(訳詞は本作日本語字幕より引用)
映画の幕開けはここから始まるが、この詞の解釈はキリスト教信仰に沿って考えると、
カトリック教会の「全実体変化」という考え方を彷彿とさせる(そのキーワードで検索すると色々と出てくる)。パンはイエスの身体でワインはイエスの血、という話を聞いたことがあるかもしれないが、大雑把に言うと司祭が祈りをささげることでその瞬間に普通のパンやワインがそうした聖体や聖杯に変わるというものだ。
しかしプロテスタントはそうした考え方を批判しており、採用していない。アメリカが伝統的にプロテスタントの国であることは基本ながら注意しなくてはならない。
大恐慌後という時代に人々が「人々は甘く、癒しの音楽を望む傾向になった」(Wikipediaから引用(「スウィング・ジャズ」の項))ように、不況に喘ぐ中で精神的支柱が求められたと考えれば、そうしたキリスト教的に解釈可能な歌詞が大衆にヒットしたのはそう不思議ではない。「歌は世につれ世は歌につれ」と言うが、それは強ち嘘ではないようにも思える。

本作は1973年の映画だが、これがその年にできたことに関してはまた後日、何かアイデアがまとまれば考察してみたい。




2019年2月5日火曜日

高くなるということは地面までの距離が伸びるということ
自分は正当に評価されていないと感じる
落ちるのが恐いなら低いところにいればいいのに、
ここまで積み上げてきた無駄なプライドと周囲の期待
失敗すれば後ろ指を差されるのは分かってるから

自分の人生は自分のものじゃない
絶え間ない取り繕いの連続、つぎはぎだらけでも他人から見て豪華であれば
それで自分の存在が正当化されるような気がしていた