2020年1月30日木曜日

弦交換ビフォーアフター


どこに投稿するわけでもないけれど、弦を交換する前後で録音して音の比較動画を作ってみました。
もともとはiRigで録音しつつちゃんと撮影できるかを試してみたかったので緩く始めたのですが、演奏しているうちにやっぱりちゃんとした動画にしようと思っていたところ、
パソコンに取り込んでみると常識の範囲を優に超える音ズレが生じていたし、そもそもあまり上手く弾けてもいないので結局ネタ動画になりました。笑
音質も良くないので、音の比較なんてとてもできそうにないです。。

音ズレの原因は何となく分かっているので、もし次撮ることがあれば改善したいです。。



2020年1月27日月曜日

パーソナル・アフェア

※テスト前なのでこのブログは読まなくても大丈夫です。。暇なときに読んでください💦


バイトから帰って、サラミを切るのが自分の楽しみであることは前にも書いたけれど、今日はそれに加えてもう一つ、"ゲスト"がいる。
カマンベールチーズだ。丸い、ホールのカマンベールチーズを散歩のおつかいのついでに買ってきた。頼まれていたわけでは全くない。お菓子を買い物カゴにこっそり忍ばせる子供のように、僕は「広告の品」と銘打たれたその品――雪印北海道100カマンベールチーズーーを徐に手に取り、カゴに追加していた。

サラミとカマンベールチーズを適当に切り、皿に盛る。


ただ"切る"だけで、出来すぎたプレートが完成した。
もっと洒落た皿が欲しいな、なんて思ってしまうような、個人的には満足のいく一皿だ。
画像のチーズをよく見て頂ければ、あるいはよく見なくとも分かるかもしれないが、写真を撮った時点で既にチーズを一口齧ってしまっている。チーズを切った時点で、久しぶりにカマンベールを味わいたくてついうっかり。『トムとジェリー』のジェリーのように悪気もなく。


ビールが発泡酒ではなく、本物のビールであったらもっと良かったのだが、生憎本物を切らしている。いずれにせよクリアアサヒは旨い。味わいは結構本物に近いような気がしている。
個人的な楽しみ。
だがカマンベールと白カビサラミ、これらは確かに共に旨いのだが、カマンベールの味わいが、サラミの繊細さをかき消してしまうように思える。これらは別々に食べる方が恐らく良い。サラミというのは、多くの人が思っているであろう以上に繊細な味わいを呈するのだ。他にはない旨さがそこにはある。

ビールに旨い肴があって、あとは音楽が足りない。

最近は専ら、心地よいサウンドに関しては、サウンドクラウドの音楽に頼ってしまっている。
クラウドという技術は、全世界をつなげながらしかし同時に――個人的な領域を無限に拡大した。


こんな音楽を聴いている。
これは個人的に、旅愁のようなシミがついてしまった音楽で、というのもドイツでも、東京でも、札幌でも、インターネットに繋げさえすればいつでもこれを聴けるからで、
僕はクラウドが文字通り雲のように、常に僕の頭上にあるような錯覚をついに感じている。
ドイツのあの部屋から新橋のホテル、札幌のアイ・カフェ、そして自室、君と一緒に入ったホテルLet'sと、僕はどこからでもこのアドレスにアクセスした。
そこは不思議なライブハウスのようなものだ。個人がそれぞれ顔を合わせないままそこに入れて、時折誰かがコメントを投げる、そして僕らは音もなくそれらを読むことができる。だが誰も彼も、顔を合わせることはない。そこに誰かがいるのかも分からない。僕らは不特定のオーディエンスで、アメリカの公園からパリの通り、日本のネットカフェ、それぞれが思い思いの場所から"聞き耳を立てている"。誰がどこに居ようかは関係ない。もはや国境はただの、地図上の線と化すのだ。

そういえば前に、札幌のアイ・カフェに1人で入ったとき、無駄な文章を綴ったのでそれを公開しようと思う。


「今はインターネットカフェでこれを書いている。ここはこれまで何度も訪れているが、
一人で利用するのは意外にも――意外ではないかもしれないが――これが初めてだ。普段
はラップトップばかりいじっているせいか、それともこの空間の静かさのせいか知らない
が、自分のタイピングの音がやけに気になる。周りからタイピングの音が聞こえないのは、単に多くの人がこの PC でタイプしていないからなのか、それとも自分が思うほど外に音が漏れないからなのかも分からない。だが自分のタイピング音はそこまで大きくはないはずだ。少なくとも、エンターキーをぶっ叩くようなことはしていない。
 この WPS というワードプロセッサは、どうやら中国の企業の製品のようだ。確かにフロ
ア中全ての端末に、マイクロソフトの正規のライセンスを取得してオフィスを導入すると
いうのは費用がかさむのかもしれない。だがこのソフト、WPS writer というワープロの UI
はさすがかなりマイクロソフトの Word を忠実に模しているように見える。あまりいじりま
わしてはいないものの、普通に操作していて違和感は全くない。「パクり」製品であることを気に病むだけ無駄な話だろう。
 自分のタイピングが止むと、ここに俄かに静寂が戻るような気がする。いや、これもま
た気に病むだけ無駄な話だろうか。
 ともかく僕はこのインターネットカフェでこのようなかなりどうでもいい文章をものし
ている。ドリンクバーのコーヒーはドトールだのに特段引けをとらない美味しさで、いつ
も通りのハイライトを吸い、自分の煙がブースから天井へと覚束ない足取りで舞っていく
のを眺めていた。一人で来るのが初めてなものだから、僕はここで利用可能な flier という
ビジネス書の要約サービスを開いてみたり、こうしてワープロを開いてみたりと、初めて
に相応しいといえる子供のような純真な好奇心をこのパソコンに向けている。だが書架に
詰まった膨大な漫画に手を出すつもりはない。僕は決して暇を潰すためにここに来たので
はない。僕はただ勉強をするために来たのだ。PC はあってもなくても良かった。
 なぜこんなものを書いているかというと、上記のような単純な好奇心のため、それとふ
と文章を書きたいという欲求があったため、そして頭痛薬が効くのを待っているためだ。
昨日からか今朝からか判然としないのだが、僕は原因不明の頭痛を脳内に飼っていて、僕
はこの頭痛を家から連れてきてしまった。大概の頭痛は煙草一本で簡単に去っていくのだ
が、この小さなしかし厄介な連れは、今回ばかりはそうとも行かせてくれないらしい。僕
は文字通り頭を抱えるような心地で、ここに来る道すがらコクミン薬局だかでいつもの頭
痛薬――イブ A 錠、二十四錠入り――を手早くキャッシュレス決済し――あそこではどう
やらたった六百円ほどをカード払いするにもサインが要るらしい――、この小ぢんまりと
したブースに入ってハイライトに火を点けるや否やコーヒーで流し込んだ。用法容量を遵
守して二錠。足りなければ後で足せばいい。
 脳それ自体は痛みを感じないというのは知っているが、この頭痛はまるで脳のど真ん中、延髄あたりからローランド溝を縦に貫く鉄柱が埋め込まれているような感覚だ。そうであれば小脳は完全に破壊されているかもしれない。そしてともすれば視床も?僕は脳の構造には疎いが、最近読んでいた本のせいで、自分の脳がどのような構造になっているのかをこの歳にして初めて知った。僕の小脳が実際には恐らく破壊されていないといえるのは、まさにこうしたタイピングを造作もなくこなせているからだ。小脳が無くても人間は正常な意識を持ち生活できるらしい。だが、それなくしては日常の”無意識の”動作が極めて困難になる。僕はぼうっとしながら画面を眺め、キーをタイプする手元をまず見ることがないが、小脳が僕に暇を告げた日にはこうした動作を諦めることを強いられるだろう。僕は自分が指先でちまちまと押しているキーボードの配置を殆ど覚えていない。知っているのは、これが QWERTY キーボードであるということだけだ。にもかかわらず、僕の指はキーを完璧に正確にとらえ、ミスタイプはまず起こrんあい。おっと失礼。
 下らないモノローグで時間を浪費するのも自分の趣味といえば趣味だが、そろそろ自分
の課題に戻らなくてはならない。僕は遠回りをする癖がある。そのくせ到着時刻はいつも
ギリギリだ。いや、ギリギリでも間に合えばいい方。僕は自分で自分の人生を厄介なもの
にしている。僕の歩く道は極めて平坦であるにもかかわらず、僕は自分の怠惰な性のせい
でいつもそこを走らなければいけなくて、そのせいで無駄に労力を消費している。この性
分を改善できればもっと生きやすくなるだろうにと思うのだが、人間はそんなに頑張れれ
ば苦労しない。だがこれを改善する労力と、改善しないことで失われる機会費用的な損失
とを天秤にかければ、結果はどうなるだろうとは思う。
 頭痛は止まない。何がいけなかったのか?カフェインが僕の神経を興奮させている?そ
れとも画面を眺める行為が眼精疲労へと向かわせている?メンソールの煙草を吸えば少し
かよくなるだろうか。あるいはイブを追加するべきだろうか。
 ともかく今回は、頭に巣食う手の焼けるペットが僕に懐いて仕方ないようなので、僕は
彼をなるべく宥めながら作業に取り掛かる他ないようだ。僕はこれからこの文章ファイル
を G-Mail で自分のアドレスに送信しようと思う。だがよく考えれば、このソフトは本家
Word と互換性があるのだろうか。僕のパソコンに送ったところで、これを開けるという保
証はないではないか。仕方ない。この文章をすべて、「メモ帳」にペーストしてテキストファイルとして送っておこう。
 そして送ってみたのはいいのだが、念のため確認したところ文字化けしている。文字コ
ードのせいだろう。直すのも面倒なので、PDF で送ってしまうのが賢明かもしれない。そ
うしてみることにした。」


結局この、無駄な文章はわざわざPDF出力され、G-Mailというクラウドメールへと送られた。だからこうして僕の手元にいつでも呼び出せる。

クラウドに支配される世界はディストピアだろうか?いや、現段階ではむしろユートピアだ。クラウドが個人を識別する情報を完全に掌握することを要求し、かつそれがあらゆる支払いを掌握したとき、世界は確かに良くも悪くも変わるかもしれない。あるいは、マイナンバーとキャッシュレスが手を結び、その情報を政府が完全に掌握したとしたら?見えない誰か、『1984』のビッグブラザーが僕らを支配する日はそう遠くないかもしれない、などと訳知り顔で言ってみるのは、現代では強ち的外れじゃないかもしれない。
ネットカフェの個室から全世界へつながるインターネットへと接続し、ブルートゥース・イヤホンでサウンドクラウドの音楽を聴いて初めて、僕は個人主義の行く末を身を以て感じた。テクノロジーは確実に社会を最小単位へと――つまり個人へと――分割する力を持っている。誰かがこんなことを言っていた。統合と分断とが同時に起こると。それは今まさに起こっていることではないか。

現代は出口の見えない時代だ。どんな権威であっても、その言葉を鵜呑みにしない方が良い。これはこれからの時代を生きるための警告だ(言わずもがな、つまりこの警告も…)。誰かが占った未来が、そのまま訪れるとは限らない。未来を自分で考え、自分の生き方を自分で作っていく力が必要だ。
現代が混乱しているのは、過去の因習と、それから不確実な未来に対する恐れのせいだ。誰も正しい答えが分かっていない。

嫌な時代かもしれないが、恐らく正しいのはそれだけだ。

だが自分が最近読んでいた数々の本の中に答えが埋もれている気がしてならない。
われわれができるのは、学ぶことだけだ。学習能力においてAIより劣っていても、われわれはAIとは根本的に異なることができ、少なくとも現段階でAIには決して真似できないことができる。AIが"学ぶ"のとわれわれが"学ぶ"のは必ずしも同じではない。現段階でAIを過剰に恐れる必要はないだろう。

現代という時代を恐れてはいけない。
"恐れ"といえばあの言葉が頭に浮かぶ。
交通事故で死ぬのは犬よりも猫が多い、というのは、猫は危険を感じると目を閉じて(固まって?)しまうからだ、と。
生きているのであれば、われわれは目を開けていなければならない。
危険を前にして思考停止に陥ることこそが最大の危険だ。



2020年1月7日火曜日

年が明けた
自分も少しは大人になれただろうかと、たまごの殻に半分入りながら考える
いや、自分はこれから大人に、にわとりさんにならなければと、
今年こそがまさにそのための一年であると自分に言う
黄色いもふもふの体毛も、一夜にして白い羽毛に変わるわけではないから
少しずつ大人🐔になっていくものだから、今年一年で大体白くなればいいか
決意、という言葉のもつ重みは自分の中に全くないが、それでも少なくとも自分にとって今年は自分に関する社会的なステータスが根本的に転換する年であることは間違いなかったし、そしてその事実を迎えるつもりでいる点で、ひよこ🐣なりの覚悟はしていた

年末に家にプレゼントしたシーバスリーガル18年を自分で1ショットだけ飲みながら、
スペイン、カタルーニャの伝統的な製法で作られたという白カビサラミを薄く切ってつまむ
スコットランドがヨーロッパと言えるかは別として、ヨーロッパ趣味は悪くない
アメリカンよりもなるべくユーロピアンに、というのは自分でもよく分からない最近の趣向だけど、やはりジャズを聴きたくなるもので、
それでも真にユーロピアンなプレイヤーを、寡聞にしてジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリの外に知らないから、いっそテネシー生まれのユセフ・ラティーフを。



興味を持ったので、今更になって日本の石油の輸入国を調べてみた。
経済産業省の2019年11月の速報値(https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/sekiyuso/result.html)によれば、1位はサウジアラビア、2位はUAE、3位クウェート、4位カタール、5位ロシアとのこと。
数字を簡単に計算してみると、1位と2位で全体の輸入量の約69%を占めている。
1位のサウジアラビアは全体の約38%を占めているようだ。
サウド家がオイルマネーで何をしているかを考えるとあまり喜べる状況ではない。


2019年12月7日土曜日

ドイツの旅行中にも実は少しブログを書いていたのですが、結局未完成で投稿しないまま、帰ってきてしまいました…
帰ってきてしまうと、もう、きっと話してしまった方が早いので、
とりあえず書きかけの記事はそのままにしておきますね。。

旅行前から旅行中にかけて、なんとなく好きで気に入っていた音楽がありました。


リサフランク420という人の、「現代のコンピュー」という曲です。
vaporwave(ヴェイパー・ウェイブ)というジャンルになります。
ですがこれは単に音楽のジャンルというわけではありません。
このビデオに特徴がかなり詰め込まれていますが、
普及した初期のパソコン風の低クオリティなCGや商業主義的でキッチュな美などを、
ローファイに再現することである種の強いノスタルジーを感じさせています。
つまり、音楽と視覚芸術の双方を範囲とする芸術です。
このジャンルの「古っぽさ」は意図的に生み出されています。
個人的にこういうのはとても好きで、旅行中も何度か観ていました。

vaporwaveと調べると色々な曲が出てくるので、もし興味があればぜひ。。

2019年11月28日木曜日

毎日どの瞬間も唯一想う、大切な愛しいこ…
いつでもほかほかのラブを送っています。。

2019年10月30日水曜日

「ママリンゴの唄」聴いてきました!

イントロは多分、こんな感じです🎈

((部屋着にしているTシャツなので変な服ですみません💦))

基本的にC#mの形で、C#mを一度鳴らしてからそのまま手の形を変えずに3弦(6F)・4弦(6F)を弾き、そしてここが少し難しいですが、小指で5弦7Fを抑えて鳴らし、小指を離して5弦4F(もともとC#mを鳴らした時に人差し指で抑えてる)を鳴らす感じかと思います!

一応TAB譜っぽい感じで書いてみたので、動画と併せて参考までにどうぞ🎈


いつか一緒に、ギター弾けるのを楽しみにしているのです!😊


2019年10月15日火曜日

モカ・マタリとドゥー・ワップ

10月15日

戸籍謄本を郵送で申請しなければいけないことを思い出して、早起きした🐰
朝晩が冷え込むこの時期は、いつにも増して目が覚めても布団から出たくなくなるが、
ここ数日ゆっくりと睡眠をとれたせいか比較的寝覚めが良く、起き出して朝食をとった

山形の田舎へ送る書類のうち、もう準備できるものは食後すぐにまとめた。
田舎にも関わらず町役場のホームページは意外にも立派で、戸籍関係の証明を郵送で申請する便宜のために、申請書のPDFファイルが公開されている。
それを印刷して、必要事項を記入し、郵便局で小為替を買って身分証明書の写しを添付して送ればいい。欲を言えばコンビニ申請にも対応してほしいものだが、良い時代になった。

書類をある程度準備してから、モカ・マタリを淹れて、ラジオのスイッチを入れてみたらBOΦWYのDreamin'が流れてきた。懐かしい。

映画JOKERに触発されて、昨日からドゥー・ワップ(Doo Wop)を聴き始めた。
1940年代後半~60年頃まで流行っていたようで、底抜けに明るく馬鹿げた音楽であるように聴こえるが、現代になって聴き返すと趣が深い。
まるで、かつては栄えていたが今では潰れて廃墟と化した劇場の、全盛期に撮影された写真のアルバムを見ているような気分になる。ナチュラルにローファイな質感が耳に心地よい。
ドゥー・ワップは大音量で聴くものだと思う。誰もそんなことは言っていないかもしれないが、その方が没入感があるし、劇場のやかましさの中にいる気分になる。
古き良き、などという言葉がこれに似合うかもしれないが、その時代が良かったのかはよく分からない。


The ChordsのSh-boom。オリジナルはCrew Cutsというグループの曲らしい。



The ChordettesのLollipop。



CrowsのGee。

自分の性に合う音楽ではないかもしれないが、この時代の空気感が妙に心地よく聴いてしまう。
ドゥー・ワップ、という音楽もなかなか悪くない。

コーヒーを淹れて、ドゥー・ワップを聴きながら『世界の哲学50の名著』を読んでいたが、今日はデヴィッド・ボームの『全体と内蔵秩序』だった。
彼は理論物理学者で、量子論や素粒子論に多大な功績を残している。
この本は非常に価値のある本で、今となっては自分の哲学はもはや、彼の世界観にかなり近づいている。これまで様々な思想や、法律に宗教学などと様々な分野を((ほんの少しずつだけ))齧ってきたが、結局世界全体に対する説明を与えるという役割をこれまでの碩学は十分に果たせなかったのだと自分は思う。
近代以降科学は全体を部分に切り分けることに終始し、それ以降の哲学もそれに追従するように科学というパラダイムのもとで(特に20世紀以降)実証性や反駁可能性を重視してきたが、そうした動きは人類が求める答えから結局のところ乖離していたと言わざるを得ないだろう。
もちろん哲学は学問としてある程度の厳密さを要求されるべきであるし、世論に迎合するべきではないが、しかし哲学というものが本来担うべきであった問いが「検証不可能」というラベルの下で封殺されるという状況は(カントの時代から始まっていたことではあるが)、哲学それ自体の生死に関わる問題であると思う。
哲学が何を担うべきか、などと大それたことを扱う資格が自分にはないことは分かっているが、それでも世界全体とは何であるかについて説明を与えるのもまた哲学の役割ではないだろうか?
問題というのはそれである。「検証不可能」であるとしても、そこに合理的な推論の道を拓いたり、現実と形而上学的な言明との間に橋を架けることを、人々は求めているのだ。
哲学というものが既に十分細分化していることを踏まえると、哲学とは何かに答えを与えるという行為それ自体、哲学のうちのある立場を選択するということにならざるを得ない。
だから自分は、自分が考えていることが普遍的ではないということを知っているし、もちろん万人の代弁をできるなどと主張するつもりもない。哲学とは「自己の偏見の擁護者」であるというニーチェの言葉は含蓄に富んでいるし、それは現代でもなお妥当している。

”世界は分割も分断もされぬ一つの全体と考えるべきなのである。世界を粒子に分割すること、あるいは粒子と場に分割することは、単に粗雑な抽象に過ぎないのであり、一つの近似である。こうしてわれわれは、ガリレオやニュートンのそれと根本的に異なる秩序に到達する――そしてそれは分割不可能な全体という秩序なのである。"  ----『全体と内蔵秩序』デヴィッド・ボーム(1980) 
世界における分割や分断とは人間の妄想である。
世界は常に、実体として単一であり、流動的なエネルギーの場のようなものである。

「個人」「個人の」という名詞・形容詞は英語でindividualというが、それはin(不可能)+divid(分ける)+ual(形容詞)、つまり「分けられない」という意味である。それが含意するのは、個人は単一の者でありそれ以上細分化できないものということであるが、この哲学的文脈に合わせて言えば、そのindividualであるということは内的に分けられないということに留まらず、世界の中において外的にもindividualなのであるように感じる。
個人は確かに個人という単位であるが、世界という一つの秩序に生きるものとしてあくまで全体の一部であり、その意味でもindividualなのである、世界の中で「個」として分断された存在ではないのだ。

最新の科学やテクノロジーを置き去りにして、よりプリミティブな次元に立ち返る時間というのが人間には必要だ。そして多くの人はその欲求を無意識のうちに、何かの行為のうちに消化している。
それは古い音楽と、全体を統合する思想により、より「素朴な」実在としての自分を問い直すことだと自分は思う。奇妙な話だが現代において、素朴な実在は、素朴な認識のもとには捉えられない。現代では科学的な分断の精神が人々の骨身に染みており、特に教育のレベルが高い人ほど、科学のそうした性質を自明の所与のものとして(ウィトゲンシュタインにいう文法命題的に)受け入れているため、素朴な実在というものを捉える機能が退化しているように思える。知的な薫陶とはある意味で、森を無視して木を見続けるようなものだ。事実、現代の専門家諸賢の多くは、何万ヘクタールもの森林から一本の木を伐り出して皮を剥ぎ、木の繊維の一部を薄く取ってプレパラートに載せ、顕微鏡でそれを血眼になって見つめ続けているようなものだ。それが重要な営みであるとしても、一生をかけてそれに終始するのは馬鹿げている。

素朴な実在は、素朴な認識の下ではなされ得ないと思う。だからこそ、それを意識的に行う必要があるのだ。