2017年1月6日金曜日

switch

俺は時々分からなくなる
自分が本当に崇拝しているものが
理性であるのか、本能であるのか
自分が何日か前まで、或いは何分か前まで
はたまた数秒前まで
それまで考えていたことと、真逆の考えが浮かぶことがある
俺はあくまで一貫した自分の主義を持っていたいが、
時に全く一貫していないように感じる
脳内の廊下はどうやら回廊になっているようで、
どちらかからスタートすれば逆側からそこに戻ってくる。
その回廊は、半分は本能的で、
半分は理性的で
あるいは、半分は自然的で、
半分は社会的(社会というのは人工物に過ぎない)で
またあるいは、半分は道徳的で、
半分は背徳的で…
「禍福は糾(あざな)える縄の如し」ということわざがあるように、
人間の生活には真逆と言えるものが常に、背中合わせになっているらしい
それを信じるか否かは別として、
なぜかそのことわざは俺の中で忘れられないのだが…
仮にそうであるとすれば、それと同じように、
個々の人間の中にも、正反対の性質が同居しているのかもしれない
これは俺の中の、何年もの主題で
これが解決しないとすれば、
自分の性質というものは往々にして、
ある正反対の性質どうしの妥協点という形で説明されるのだろうか?
しかし一方で俺は自分が妥協点に立っているとも思えない
すると、今度は回廊ではなく振り子のように、
ある側に動いては逆方向に同じだけ動く、といった具合に
両側を行ったり来たりしている、という説明の方が
どちらかと言えば、妥当と言える
自然科学的な用語を知らないのが残念だが、
振り子が止まっているときの点が、
この話で言う"妥協点"というところなのだろうか

ふむ…
嫌いだね、人間でいるということは


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