2016年10月2日日曜日

die neue Jarhreszeit

また新しい季節が来た。
秋、
空気の匂いも既に夏のそれではない。
夏から冬へと季節が入れ替わろうとする季節に、色づく樹々は最後の存在感を表すかのように
俄かにその葉を色付け、そして散らせていく
人は夏の新緑を尊ぶと思えば、次には違うことを考え始め
やがてその健康的な木々の青葉に目を留めることもなくなる。
しかし、散り際のその、葉の最期の瞬間の派手な赤や黄に目を留める。
人々がその、所謂紅葉を美しいと思うのは、死していく葉にある種の自然の摂理を感じ、その儚さを美としている、という節があるのではないだろうか
日本人であるならば、それくらいの豊かな感受性を持ち合わせているはずである…というよりかは、持ち合わせていてほしい。
そんなことを呑気に考えてるというのは、往々にして暇人の所業であろうか。
俺は自然に対する敬意を持っている。
人は自然という大きな揺りかごの中に生まれるも、そこに人工的に作り上げた社会に自らをねじ込んでは音を上げ、それでもその愚かしい現実を受け入れて生きていく人がいれば、ドロップアウトしていく人たちもいる。作られたヒエラルキーに居づらさを感じ、人間の関係に嫌悪感を覚える。本来、自然にはそんなものはなかったはずだ…大きな揺りかごの中で、どうしてそんな肩身の狭い思いをしなければいけないのか?
そう疑うのは、しかし視点を変えれば、また浅はかな考えであった。
人間はいずれにせよ、自然という大きな揺りかごの中から抜け出すことはできない。ここは自然の産褥でありながら、自然の共同墓地であるのだろう。
そういう考えはもとから、俺の心の中にあった。人は、自然環境を破壊しようと、自然界において発生しない物質を作り出そうとも、ある民族を殲滅しようとも、自然そのものを犯すことはできない。簡単に言えば、すべての人間の所業もまた、すべて自然であるということだ。つまり、人間はどう足掻こうと、この自然から逸脱することはできない。いくら自然の摂理に反した行動を起こしても、それもまた自然の働きである。
つまりは、人は自分の居づらい世界を、"人工の"もののせいにすることはできないのだった。なぜなら、"人工"というのはつまるところ、"自然の"働きに過ぎないのだから。
しかしこの考えは、ある程度思慮深い人間を絶望の底に突き落とすだけだろう。しかし、人間には狡知という天賦の打開策が与えられている。
自分ではわかっていても、例えば自分の居づらい状況があったとして、それを自然のせいだから仕方ないと飲み込むことは、敬虔なキリスト教徒にでもならなければ耐えられないだろう。
ここまで来ると、情けないかもしれないが、この"人工"というものを、自分の考えを保留して専ら自然と切り離して捉え、あくまで自然とは違う人工というものに、罪を着せるしかないのだ。
だから、やはり、この大きな揺りかごの中にいると頭で理解しつつも、結局"人工"というバーチャルな敵を頭の中に作り出さざるを得なくなる。
人工の中に、専ら快楽を見いだせないとすれば、俺の中にデカダンスを賛美する素質というものは、おおよそなくなってしまう。
しかし、俺はそうではない。
自然の中に美があるとして、すると人工の中に美が無いわけがあるだろうか?
人工とは、人間による加工を以って姿を変えた自然である。
話が二転三転するようであるが、その、人工的であるようでいつつも、しかし自然と言わざるを得ないものに対して、諦めに近いような感覚をもって、そこにもまたある種の捻じれた美を見いだせる。
一方、自然的であるようでいつつも、しかし人工と言わざるを得ない(念のため捕捉すれば、しかしその人工というものもある種の自然の働きである)というものに対しては、儚さに近い感覚を以って、確固たる美を見出すことができる。
つまるところ、俺の中の美というのは、多くの場合、諦めや儚さを伴う。そういった美に分類されるのは、音楽、文学、家財道具、所持品、そして人間の理性などである。
一方、そうでない美、自分がそれに敬意をもってその偉大なる美を感じるものは、森林や山河などの風景、そして君の肉体などである。
君のむちむちとした体、ぷにぷにの腕…というのは自分の本能的な好みを完全に体現しており、その君の体、そしてその内に宿る君独自の理性を勿論含めて、自分の心に適う美である。((これ真面目な顔でかいてる))

しかし自分の思っていることを完全に書き出すのは難しい。

少なくとも自分の中で"高尚な精神活動"と呼べるものをこねくり回すのは、案外疲れを伴うものだ。
それでも自分の理論の整合性に関しては、かなり注意を払ったつもりだ。

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