2016年8月30日火曜日

hypocrites

俺はどこに自分の本体があるのだろうか
俺は色々なことを考えても考えても、小さな人間という存在を超えることは当然できない。
それに、それだからこそ、主観的な人間の視点以外から自分を見ることもできない
人々は目を通して以外、物を見ることができない
網膜に写る像に名前を付けて、それを見た気になっている
物それ自体を、その本質を捉えることはできない

俺はこの世を、そして自分をそれ以外の視点で見たい
できないけれど、できたとしても
俺は矮小で卑俗な自分を発見するだけだと思う
この世は実はもっと崇高なものであったらいいのに
予想に反して実は、きれいだったらいいのに
最近そう思うことが増えた
人々は実は、きれいでもきたなくもないものに
きれい、とかきたない、とか、これもまた、名前を付ける
自分の定義外概念に自信を持つことは悪いことじゃない、それに
その中には、人々の間で暗黙に共有されてるものも多くある
つまりもともときっと、この世は実は綺麗でも汚くもない
あるがままの世界が、目の前にある
事実はそれだけのことなんだ、でも、それを鵜呑みにして理解することができるかい?
ここで肯けるのは、愚か者か、それか逆に、賢者だろう
低俗すぎても、高貴すぎても、人間性に率直に反応しないのかもしれないな
ひどく愚鈍であれば、感性を磨かれていないが故に、彼の人間性は十分に反応できない
ひどく利発であれば、既に人間性の如何なるものかと、その泥臭さ、それに対する麻酔の適切な処方を知っているがために、彼の人間性は十分に働かされない
感性を磨きすぎれば、その切れ味はひどく鈍っていくのだろう、
それは自らを破壊する衝動に、無意識的に転換されている
とにかく、この世に対する尽きせぬ悲哀
俺の軽蔑には憐憫の情さえ含まれている、
だから外に出る時は、俺は敢えてそう思って、
何かに対してまさに、憐憫の情を抱くことのないよう
ある意味残酷な気分で過ごしていることが、大抵だ
自分の人生にちっとも影響を与え得ないだろう道端の悲哀に、いちいち心を痛め、そのために祈ろうなんて
もちろん考えたことは何度もあった、そもそもそれは、俺の根底の価値観だった
というよりか、その価値観はあまりにも強く根を張りすぎたため、つまりは土壌をひどく拘束することになった
慈愛の樹を自分の頭の中に育てるには、そのための水が少なすぎた
ただ、あるのはその樹に毒性の強い実をつけさせる凶暴な肥料だけで
その実を齧ればたちまち、体中に毒がまわって、のたうち回る
けれどもその実を取らずにはいられない、なぜなら他の樹がつける実はすべて
渋かったり、酸っぱかったり
まともな実がならない、加えて
その唯一の実は内部で自然に発酵して、芳醇なアルコール分を蓄えている
その嘲笑に満ちた味わいに手なずけられ、他の実では満足が出来なくなっている
それは慈愛の樹ではなく、偽善の樹であった
それでもきっと、自分の目がおかしいに違いない
俺の網膜が、その名札に慈愛と書いてみたり、偽善と書き換えてみたり、ときには憐憫と、頽廃と、様々に変えてしまうからだろう
俺は自分の頭の中ですら、正確に捉えることはできていない
俺の脳の主人は自分自身でないとだめだという思いも浮かんでは消えを繰り返し
結局のところ、精神というものの脆弱さを疑い、徹底的に懐疑的になったかと思えば
こんどは聖書を開いてみたり、つかの間の信仰心を抱く
それでもその、大いなるものに対する信仰、礼賛は
小さきものの不安定さを軽くするに役立たないことはないことは、確かだった。
自分の判断力と悟性の未熟さを卑下し、目に見えない大いなる力を認めることに対する
圧倒的な悔恨の情は、聖書を開いている最中よりも、そのことを思い出している最中に増長していく次第であった。
しかしこの世の悲しさについて感傷的な思いを抱く人々は本当に、かなりの数がいる。
それでも、そうして悲しさの中に生きている人々は、そこに一輪の花を添えてかえってその虚しさを強調する偽善者よりも、はるかに善を為しているとすら、俺は思っていた。
もちろんこの世に慈悲は不可欠であり、そこに流される涙、愛情は必ずしも、批判されるべきではない。
しかしそれを空虚に、妙であるが、無慈悲に慈悲を垂れ流している連中には、とてもじゃないが、俺は目も当てられないほどだった
彼らの偽善に対する、いっぱいの空虚と複雑に絡む感情
それが自分にとって、やりきれないことの一つであると気付いたのは小学校に入学する前だった。
生まれ持った悲しみの遺伝子は今になって、あらゆるものに対する軽蔑の念を生み出す結果となったのは悲惨な結果だった。
しかしそれでも、自分の中において寂しさというテーマに対する本能的な信仰は、古傷を抉るに抉っても、なお快感と紙一重だと思っている
それが今のデカダン趣味に至っていると考えるのは、強ち無理でもないと言える。
とにかく俺はつかの間の救済を求めて手を伸ばした聖書によって、本当に知らぬ間に、影響されていた
"偽善"というものに対する醜悪なイメージをひどくこじらせてしまったかもしれない

まあこれだけ書いたけれども、実際、こんなことはどうでもいいんだ

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